私は焼きそばが好きだ。
フレンチより、イタリアンより、焼きそばが好きだ。
それには深い訳があるが、この拙稿では蛇足に過ぎず、また本意では無い形で受けとられてしまいがちなウェブにおいて、この訳を一抹の齟齬もなく伝える文筆力が不幸にして私は持ち合わせておらぬゆえ、御容赦願いたい。
さて、焼きそばの作り方、諸説ある。
先程の深遠なる焼きそば愛を仄めかす文言を読まれれば、私の焼きそばの作り方へのこだわりはさぞ素晴らしい事であろうと類推される方もおられるでしょうが、それは的外れである。
そもそも、焼きそばの焼きそばとしてのレゾンデートルを確保する為の構成要件は
「焼く」
及び
「そば」
で、ある。
昨今流行りのパクチーなる異国の香草や、焼く工程の存在しないカップ焼きそばなど焼きそばではなく、焼きそばはそばを焼いてこそ、その存在を輝かせるのである。
フライパンを熱し、そばを入れ、焼く。その工程以外に何を必要とするのか。
かのローマ時代の哲学者、ポメイロスは自著にて
「目的をせざるは工程にその真を問わず、その工程に真あらざるば目的はまた深遠にある」
と記している。
すなわち、焼きそばはそばを焼く事以外必要とせず、それ以外を加えた時点でそれは焼きそばあらざるものへと変化するのだ。
ああ、そばよ、その業火の上で踊り狂う油の上に降臨すべし、その身を焦がし、焼きそばへと昇華せしめんと我は欲すのだ。
今宵の焼きそばも、ジョニ黒に合う。
【補足】
僕は断麺中です。